梶井基次郎『檸檬』について
『檸檬』を読んで、多分こうなってるんだろうなあと思ったことをまとめました。
評論というより、この小説がどれだけ巧みに構成されてるかについて語ってます。
普段からみすぼらしい物に価値を置いてる貧乏な私!ある日、八百屋に檸檬が売ってたからつい買っちゃったの。そしたら遊んでるうちに全能感が湧いてきて!だから普段は敬遠してる丸善にも入ってみちゃうゾ☆
ああでもやっぱり辛い。こうなったら檸檬を爆弾に見たてて丸善を爆破!ズガーン!気分いい!
— ゆるふわ (@simple_cpa) 2015, 3月 29
大まかなあらすじ
・ビードロのかすかな爽やかな涼しい味が好き
子供の頃のビードロ⇔大人になったときの檸檬
この2つが重量的に等しくなったからこそ、檸檬に「尋ねあぐんでいた重さ」が生まれている。これは過去への憧憬が多分に含まれている描写(続)
— ゆるふわ (@simple_cpa) 2015, 3月 29
実際は、「私」は檸檬を口に入れたりはせず、手に持ったり匂いを嗅いだりすることで、子供の頃ビードロを口に運んだのと同じような行動を取ってる。だからこそ「なんともいえない享楽」をまた味わうことができ、そこから全能感が生まれて、丸善にもやすやすと入れるように思えた
— ゆるふわ (@simple_cpa) 2015, 3月 29
・花火が好き。でも花火そのものよりも、赤や青や黄や紫の安っぽい絵の具で塗られた多くの物が、ごっちゃになって1つに詰められてるのが好き。
丸善の本屋で本を積み重ねて、その頂上に檸檬を置く。その瞬間、檸檬と多彩な色の表紙をした本たちが1つになり、まるで「花火」のように思えた
— ゆるふわ (@simple_cpa) 2015, 3月 29
だからこそ「私」はこれを爆弾に見立てて、丸善が爆破されることを夢想している
まとめると、最初のビードロと花火の話が、後に檸檬を買った時の諧謔心、それから檸檬と本の山を爆弾に見立てる話の伏線になってるわけだ
— ゆるふわ (@simple_cpa) 2015, 3月 29
後で小林秀雄の『檸檬』評を見てみると「小児の戯れのように生き生きとした諧謔」とあった
この指摘がビードロへの言及だということが言うまでもないだろう
ただ、小林秀雄でも花火に関する話はしていなかった
指摘するまでもないと思ったのだろうか
そしてこれらの基盤になっているのは、みすぼらしいものに美しさを生み出す「私」の価値観なわけで。随所に出てくる色の話も相まって、この話全体がカラフルだけど安っぽい、でもだからこそ美しい話になってるんだよね。
以上、梶井基次郎『檸檬』でしたhttp://t.co/0jkXyxRI35
— ゆるふわ (@simple_cpa) 2015, 3月 29
さらに追加。檸檬を爆弾に重ねることを馬鹿らしいと思った人もいるかもしれないが、その伏線は既に用意されている。地元の風景を見知らない土地と重ね合わせるほどの想像力を持つ「私」が、檸檬をビードロに重ねないはずがなく、また檸檬を爆弾に重ねないはずがないのだ。
— ゆるふわ (@simple_cpa) 2015, 3月 29
そして檸檬は爆弾(花火のメタファー)であったが故に、キーンという音を『してはいけなかった』。バーンでもいけなかった。何故ならそこでは、檸檬は花火と檸檬の中間物だったから。カーンという音『でなければならなかった』
— ゆるふわ (@simple_cpa) 2015, 3月 29